ニュージーランドから帰ってきちゃいました

ジーランドでの約1年留学し終わったの大学生です。
帰国後は、普段思ったことをつらつら書いていこうと思います。

私のお気に入りの村上春樹作品集


 時間があるうちに、少し書きたいなあということを書こうと思います。

 それは今まで読んだ中でお気に入りの村上春樹の本です。


 大雑把にいうと、私は彼の長編小説よりも短編小説とエッセイの方が好きですね。長編は、なんか よし!!これから読んでやるぞ!!みたいな意気込みが必要なのですが、短編やエッセイは本当に気軽に読めるので私は好きですね。あと、村上春樹の長編小説の小説は主人公が非常に女の子にモテるので(読んでいるこっちが腹立たしくなってくる。。。。)。短編小説だやはり村上春樹の文体で色んな話を読めるというのがミソだと思います。エッセイは、なんか彼もすごい色んな本を書いているけどやはり1人の人間なんだなあと感じられるところが好きですね。

さて、好きな小説のタイトルをあげていきますと


国境の南、太陽の西
アフターダーク
女のいない男たち
東京奇譚集
恋しくて
レキシントンの幽霊
やがて哀しき外国語
うずまき猫のみつけかた
辺境・近況
走ることについて僕の語ること



って感じですかね。もうちょっとあった気がするんだけど。(ちなみにウィキペディアを見ると、アフターダークや女のいない男たちが長編小説に分類されているんですが、私の中ではに、長編小説というのは ねじまき鳥クロニクルとかハードボイルドワンダーランド並に全3巻とか出版されてるものを指すので、ここではまあ、、、、あまり気にしないで頂きたいです)

 
国境の南、太陽の西はなんか訳もなく読了後に あ、よかったなあと思った作品でしたね。なんかすごく読みやすかったです。
アフターダークは村上春樹の本の中でも一番好きかもしれません。日本からわざわざニュージーランドに持って来ましたし。この本では、多分 視点 というものがフォーカスされているんでしょうが(明らかにか。)私的にはなんだろう、話自体がすごく好きなんですね。深夜のお話。なんか心に残るフレーズが多くて、今でもたまに部分的に読み返してしまうんですよね。


女のいない男たち。実は、前にバイト先の人にすすめたら、 全く何が良いのかが分からない。というか何を書いているのか分からないと言われましたね。更に、村上春樹のどこがいいの?????って言われました。ううん、どこがいいと言われてもなああ。少し困りますね。なんとか言葉にしようとすれば、彼の文体は本当にオリジナルだからですかね。まず村上春樹の文体はもう彼のオリジナルであって、他の人が真似しようと思っても出来ないものだと思うのですよね。だから彼の本を読んでしまう。更に、不思議なことに彼の文体って本当に私にぴったりときたものですから。
ああ、で、この女のいない男たちですが  私がいいなあと思ったのは  「ドライブ・マイ・カー」「独立器官」「木野」ですかね。すごく面白いなあと思ってしまいました。


次は、東京奇譚集。これは全部の話が面白かったなあ。なんかこんな良い意味でヘンテコな話って中々×人いないと思うんですよね。村上春樹はメタファーがすごく独特。オリジナル。そういうところに惹かれるのかもしれません。




ちょっと疲れてしまった。続きます。









1Q84を読んで。感想とか。


 イースターブレイクに入り、せっかく時間も出来たので村上春樹がオークランドに来る前に読んでいない彼の作品を読もうと思い、1Q84を大学の図書館で借りました。(以下、ちょいとばかしネタバレあり?)




 まだ1巻しか読んでいないのですが、読んでいる最中に背筋が凍るような感覚になりました。なんと表現していいやら、私の胸にずどん!とくるものがありました。中々言葉に出来ない部分もありますが、少しずつそれらの部分を言葉で表現していきたいと思います。


とりあえずいいたいこと
社会主義の革命的な要素(「あけぼの」とか「さきがけ」)とか、宗教団体の要素が入っていることで、小説の中身に一層の現実味を感じた。



 私は高校1年生の時、初めて村上春樹の作品を読みました。それは「海辺のカフカ」だったのですが、当時の私には中身の半分以上を理解することは出来ませんでした。確か、すごく抽象的で、ファンタジックの要素が入ってた上に今までにこのような文体の小説を読んだことが無かったため、理解にすごく苦しんだのです。なので、海辺のカフカの印象は、なんだか全然現実味のない、ファンタジーのような話だなと思っていました。

 この1Q84では、社会主義の団体と宗教団体が出てきて物語でかなり重要な役目をしています。なんというか、本当にこれらがあることによってものすごく現実味のある、本当に自分の間近でこの1Q84の物語が展開されてるんじゃないかという摩訶不思議な気分になったのです。だからより一層、この本の中身がダイレクトに自分の中に伝わってきた気がするのです。そして、とても怖いと感じたのです。1Q84の世界に、本当に自分が巻き込まれているような気がしたのです。


それは恐らく、ただ単に社会主義や宗教団体について本の中で述べられていたからではありません。最近、自分なりに社会主義や共産主義、資本主義の在り方について深く考えるようになったからだと思います。
 私は、今期の授業で社会学の授業を2つとっているのですが、そのどちらでもマルクス理論について深く勉強しました。本当に、それは興味深かったです。マルクスは本当に正確に社会のことを分析し、言い当てていました。個人的見解としては、どれかの主義を信奉するということはないですが現在の資本主義に疑問を強く感じたのも事実です。そのようなことを考えていたら、丁度この1Q84でそれに関する団体が出てきて、本当にタイムリーだったのです。



  少し話はずれますが、村上春樹は何度か 根源的な悪を題材に本を書いています。例えば「ねじまき鳥クロニクル」とかが代表ですね。根源的な悪。最初はあまりぴんときませんでした。そのような、本当に強烈な悪意というのは、確かに存在するのであろうけども自分とは遠い存在だと感じていたのです。自分の周りは本当に良い人ばっかだし、私自身も争いを好まない平和主義者です。今後一生、そのような悪と対峙することはまあ恐らくないだろうと思っていたのです。けrでお、この1Q84を読んでいると、ふ、とこのような悪にいつか立ち向かうんじゃないか、そんな気がしてきてしまったのです。(文章が稚拙なせいで誤解しないで頂きたいですが、ここでの根源的悪は宗教や経済の主義を指しません)そう思うと、本当に怖くなってしまったのです。天吾や青豆たちがいつのまにか1Q84年に入ってしまったように、私もいつからか気づかぬうちにそのような悪と接近してしまうのではないか、と感じたのです。



私のお気に入りの村上春樹の著作の1つに「アフターダーク」があります。その中で、高橋がマリに自身が法律に興味をもった理由、彼が裁判所の冒頭陳述を危機にいった時の話をします。その時高橋は、被告は完全に悪で自分とは全く異なる存在なはずはのになぜかそれは他人事のように思えなくなってきた、とマリに話すのです。この彼の感覚と、私が1Q84を読んだ時の感覚は酷似していると思います。そう、どんどん他人事のようには思えなくなっていくのです。


 そして、ふとどうやったらその悪と距離をとればよいのだろうと思いました。(悪と戦う意思は私には持ち合わせていない) うう~~~んと悩みました。世の中、絶対的なものはないし、それがない以上そもそも正と悪の境目も曖昧だなあと。それなら、やはり自分で何が正で何が悪なのか決める必要があると思いました。そして、自分でこれは悪!と判断できればそこから距離をとることが出来るんじゃないかと思いました。つまり、自分なりのものさしを作らなきゃなと思ったのです。何か、物事をはかるものさし。そしてそのものさしは、きっと自分の経験や学んだこと、知ったことでさらに使いやすく精度のいいものになっていくと思うのです。


色々話が行ったり来たりしましたが、1Q84は結構私の中でお気に入りの本になりました。



 それにしても、全然話は関係ないですがインターネットをみるとけっこう村上春樹の本とかそれあに関することについて批判があるのですね。まあ有名になるということは、良くも悪くも色んな人から注目を浴びることになりますもんね。
でも、日本だけでなく海外でもたくさん翻訳されて有名な日本人の小説家って、村上春樹だけだと思うんですよね。そこは本当に評価されるべきだと思います。ニュージーランドのライターズフェスティバルでもかなり彼のことを注目して大物扱いしている感があります。それはすごいことだと思うのです。


ま、人の好き嫌いは様々ですし、好き嫌いを押し付ける必要はないと思うのです(むしろそういう強要は私自身好きじゃないですね)。 1年前くらいに、本屋で 村上春樹を読む女は病んでいる みたいな本があったのは少し不快でしたけど。私にとって読書は趣味で、娯楽で、好きでしている行為で村上春樹の本を読むことも私の楽しみの1つなのになんで他人に病んでいるとか言われなきゃいけないんでしょうかね。自分の価値観を他人に無理やり押し付けられるのは不快です。村上春樹の本を読んで何が悪いんだ、そんなの他人が出る幕じゃないわと思うのですけど。









文化の壁はぼこぼこ。



 そうえいばこの前は人前で意見をいうことについて書きましたね。

 とにかく人前で意見を言うってことは、非常に目立つ行為ですし、何か言ったら必ず後で友達とかに「すごいね~」とか「やっぱ頭いいね」とか言われて、、、それを一々そんなことないよって否定するのも面倒です。


 思うに、日本では本当に授業中に意見を求めることが少ないですよね。また、意見を求めたってほとんどの場合誰も挙手して自分から言おうとはしないのではないでしょうか。別にそれが悪いとか、批判する訳ではありません。ただ事実として、そういう環境で過ごしていた人間が、海外に行って ほら言えよ自分の意見!!! って言われていきなり言える訳がないんですよね。


 アメリカからの帰国子女の友達が、今も留学でアメリカに行っているのですが フェイスブックでこんなことを投稿していました。 アメリカから帰国して、周りに合わせて自分の意見を活発に言うことを控えていた。自分を抑えていた。でもアメリカに戻って、あ、自分の意見を言えるような環境に戻って あ、これが私だなって思った。  って。


 ニュージーランドに来てからよく思うのが、文化の壁ってけっこうでかい、ということです。そりゃよく文化の壁を超えるとかよく言われているけれど、実際その壁はぼこぼこで  簡単に乗り越えられるところもあれば、乗り越えるところがすごく難しいところだってあるんですよね。