ニュージーランドから帰ってきちゃいました

ジーランドでの約1年留学し終わったの大学生です。
帰国後は、普段思ったことをつらつら書いていこうと思います。

集中力といって私が考えること

 今日は、最近にょろにょろと考えていた集中力について書きたいと思います。こちらの大学で授業が始まってからというものの、予想していたとおりリーディングの量が異常に多く課題としてだされます。毎週。日本の大学でも、基本的にに授業は英語だったし、課題も英語でかかれたリーディングが出されていたのですが、やはりこちらの方が量は多いです。そして、こちらでは実家暮らしではなく寮で暮らしているので基本的に自分のことは自分でしなきゃなりません。家事、炊事、洗濯、掃除。勉強や遊びの合間にちまちましています。更に、雑事がごそごそ、、、と。こんなことをしているだけで正直一日が直ぐに終わってしまいますし、ていうかどれも満足に終えられないまま終わってしまうこともあります。まあここで書きたいのは、そんな忙しいアピールではなくて、そうやって自分でやらなければならないことをこなす中で、考えていたのはいかに集中力が大事かということです。当然のお話ですが、集中をしたほうが効率があがる、まあつまりリーディングも早く読み終わるわけです。色んなことを考えながらで全く集中していないと、だらだらだらと時間が経ってしまい、次したかったことが明日に持ち越しになってしまうというのはよくあることです。ていうかしょっちゅう。なので、最近は一つのことに、きちんと向き合って集中すること、にすごく関心を寄せるというか、意識をしてそうしよう、と心がけています。まあこれが難しいんですがね。しかし、こうしてじっくり集中力について考えてみると色んな集中力にまつわる自己経験や人から聞いた話を思い出します。

例えば、これは私が大学受験勉強をしていた頃。自分が通っていた塾で、今は残念ながら退職してしまったのですが、そっちの道ではけっこう有名な先生が自身のブログでこんなことを記していました。うろおぼえなので簡潔に書きますね。
ある生徒は、東大志望なのですが両親が共働きか、それえとも片親で忙しいのかで勉強だけでなく、年下の兄妹の面倒を見なければなりませんでした。勉強しながらも、お皿洗いなど、保育園へのお迎えなどもしていました。結果的に、その生徒は東大に見事現役合格したのです。この話を聞いた、別の生徒がこういいました。
彼はもとから頭が良かったんですね。だから勉強だけじゃなくて別のことをしていても、東大に受かったんですね。と。
けれどその先生は違うといいました。むしろ、その皿洗いなどをしていたから東大に合格したんだと。
つまり、仕事(勉強や家事)がたくさんやらなければならないことがあったため、一つ一つを効率的に、つまり集中してやりる、まあやらざるをえなかったのですね。時間がたくさんあれば、その分たくさん勉強出来るかっていうとそういう訳でもない。本気で集中して、どうすれば効率がよく出来るかなどを考えて物事をこなしていったことで、最終的に物事を全てやり遂げることが出来たのでしょう。


かなり興味深い話です。
あと、これはまたちょっと違う感じの集中力にまつわるお話ですが、
かの村上春樹さんが自身の著書で(確か 『走るときに僕が考えること』だったと思うのですが)あとこれもうろ覚えなのですが
走ることは集中力につながると仰っていました。ううーーん、なるほど。
私もたまに走るのですが、ガチの本気で走るときって頭がカラッポになってなにも考えなくなるんですよね。そして気づけば時間がもう過ぎている、、、みたいな。
これを考えると集中力って運動とも深く関わっているのではないかと思います。
個人的な話ですが、私は中高の部活で弓道をしていました。
中学の時は大して練習しないので全く上手くなかったですが、高1の時に心を入れか練習に専念し、高2の関東の大会でチームに選ばれ団体戦で入賞しました。
あの時の自分は、うまくなりたいっていうことだけをとにかく考えて矢数をとにかくかけていました。(つまりたくさん弓を引いていたということ)まあそれも結果的に功を奏したから良かったんですが、かなりの矢数をかけても上手くなるのには時間がかかりました。勿論そういうものでもあると思うのですが、一方でただ矢数をかけるのに必死で一本一本の矢を心をこめて集中して使っていなかったような気がします。てかそうでした。当時の指導の先生も口酸っぱく、丁寧に引きなさいと言っていました。
また、かの吉田兼好は徒然草で
その一本が終わりの一本だと思いなさい。あともう一本あると思うと気が緩むから。(弓道では基本、一回に二本の矢をもちます)
と書いていました。まさに、その通り。つまり、一本一本のやに全力をかけろということです。



  こうして考えると、今までの人生、たくさん集中力を要する機会がたくさんありました。(もちろん今も、これからも)でも、正直、集中力って言葉、使われすぎて今更使っても本当に理解すべき意味の三分の一ぐらいしか皆理解して言葉の意味を受け取ってくれないんじゃないかなあと思います。私もそのうちの一人でした。でも、自分でなんとなく集中力の存在と重要性を認識して、意識し始めると、改めてその重みを感じてきます。それを忘れないようにしたい今日この頃です。



まあ効率よくなにかをするっていうのも大事なんですが、時間をかけなければ手に入れられないものっていうのも確実にあるんですよね。今度はそれについてのそのそ書きたいと思います。















個人的恋愛観

最近ふと心に浮かんだことを書きます。 それは友達に彼氏や彼女のことをどう話すかということ。
なんというか、私は時々自分の付き合っている人について話す人を選んでいることがあります。(これは私だけの話じゃないんかな)例えば、自分の彼氏(ここでは面倒なので彼氏彼女って書かないで、彼氏で統一します)について初対面の時やかなり仲良くなる前から話してくる子がいます。そういう子にはやはり自分の彼氏の話が出来ます。でも一方で全く自分の彼氏の話や自分の恋愛観について話さない女子もいます。そういう子の前では、なんとなく自分の彼氏の話がしづらいのです。思うに、彼氏が出来る前の自分がそういうタイプ、つまりあまり恋愛などについて積極的に話すタイプではなかったからかもしれません。てか、もっと言えばあまり恋愛について話したがらないタイプでした。何故なら私は今まで彼氏が出来たことがなく、もっとはきり言えばそれに対してコンプレックスを抱いていたからです。私は、中高女子高で全く男子がいない環境で育ってきました。そして、共学の大学に入学しました。まあ何が起きるかというと、周りの友達はじゃんじゃん彼氏が出来ていくわけです。それに対して、私は、、、みたいな。なので大学に入ってからかなり恋愛の話に対して過敏なところがありまいた。まあもともと、母親もそうであるように私もそんな恋愛にすごい関心があるわけではありませんでした。そりゃあ人並みに彼氏は欲しいし、あああの人かっこいいなあとか、タイプだなあってことはもちろんあります。けれど、正直恋愛しなくっても生きていける。私の場合は勉強して、友達と遊んで、家族と過ごしてたまに旅行出来ればそれでオッケー。十分楽しい!と思えました。第一、これが私の中高6年間の過ごし方だったんだし、いきなり大学に入っていきなり変わるわけがありません。だから正直、そこまで恋愛にいれこめる人の気持ちが理解できなかったし、当たり前のように恋愛の話を振ってこないで欲しかった。皆、何人と付き合ったことある?とか。付き合った経験があるの前提かよ!みたいな。そして彼氏がいないことはすごく恥ずかしいことであるような気がしました。そして今。まあ色々あって幸運なことに彼氏が出来たわけです。私の立場は変わりました。恋愛の話が出来ない・したくない人間の立場から、恋愛の話が出来る・してもかまわない人の立場にです。けれど、その立場の変換が起きた今でも、私はいまだに恋愛の話が出来ない人の立場にいるような気がするのです。つまり、長らくそこにいたので、なかなか脱けだすことが出来ないのですね。更には、そちらの人たちの苦しみが分かってしまう。自分も全く同じそれを経験してきたから。恐らく、それで私は自分の付き合っている人の話を、ある人の前ではたくさんしゃべることが出来、ある人の前ではほとんど話さないということになるのでしょうね。
でも私はいつもつくづく思いますが、
彼氏とか彼女ってそんなに無理してつくるものではないと思うのですよね。私の意見としては。
まあ作りたいなら作ったらいいと思いますが、周りが作ってるから私も、みたいな
あせって作ったり、いないからといって自分を卑下しなくてもいいと思うのです。
そんな適当に作った彼氏と一緒にいて、
周りの人たちにはその人の話、つまり自分も恋愛活動をしているのだという証明をすることが出来ますが
特に合わない人と過ごす時間って、けっこうつらい気がします。自分の貴重な時間をすり減らしているような気もするのです。
それだったら自分がしたいことや自分を磨くことに時間を費やした方がもっと有意義なんじゃないかな、、、と思うのです。
ですが、この意見は私がいうとやはり上から目線なのかもしれません。私は結局なんやかんや付き合っている人がいるので、 そんなこといったてお前は彼氏がいるからいいよな、と言われたらもう何も言えません。なんの反論もできません。
でも、それでも、そりゃあ付き合う人が出来て、少しは変わってしまった部分もあるけど
でも思うのは 彼氏彼女を作らなきゃいけない!!! って、脅迫観念みたいに思うのはちょっと変だし、
そう思わせている社会もどうなんかな、と思うのです。

ラインやメッセンジャーから考えた自分の人間関係

 ニュージーに来てから、恐らく時間がたっぷりあるからでしょうが自分を客観的にみることが多くなりました。私が自分自身を客観的に見て気づいたことが、私って本当にメールやラインを使わないっていうことです。勿論、連絡手段としてラインやフェイスブックのメッセンジャーはよく使用します。けれど、日常的な会話のために使うことはあまりありません。何故だろう???でも簡単にいうと正直めんどくさいのだと思います。必要以外のことはしたくない。考えてみれば、日本にいた時はラインで直接会う約束を取り付け、会話という会話は直接会ってしていました。つまり、ラインが私にとっての会話の場所になることはありませんでした。でも付き合っている人との場合は違いますね、日本にいた時からラインも1つの会話の場所になっていました。でもそれは他と少し意味合いが違うような気がします。つまり、付き合っている人とほぼ毎日ラインで会話するのは必要事項の1つだと私の中で見なしているんだと思います。まあとどのつまり私はものぐさ。中々人と連絡をとらない。別にこれでちゃんと友達がいるから別にいいんですがね。でもニュージーに来て、このままでいいのか??とちょっと疑問に感じてきました。ニュージーでは本当にいろんな国からの子達と友達になりました。たくさんの人達と会って、そしてたくさんの人達にさようならをしました。皆、日本とはものすごく遠い国ばかりです。簡単にいける距離ではありません。Let's keep in touch. 連絡を取り続けようね。簡単に行ける距離ではないからこそ、ラインやメッセンジャーで連絡することが出来るって本当に便利なんですよね。けれどここで出てくるのが私のこのものぐさ太郎。中々連絡をとろうとしない、自分から。そんなものぐさな自分の性格、嫌いではないのですがやはり少々問題があると思います、海外にいる友達と連絡を取り続けるという点で。でも私はここで明らかにするべきですね。

ものぐさな性格であり続けるのも別に良し。  性格だからしょうがない。
でも同時に、これも心に留めておくことだ。最低限、本当にたまに連絡をとらないと、
本当にその子たちと疎遠になってしまうという事実。
今までの友達は皆ほとんど日本にいる。頻繁にラインで会話しなくてもいつでも会いに行けるね。
でも今度の友達は特別。彼らは日本にいない。いつでも会いにいける訳じゃない。



私は昔から人との距離の取り方がうまく掴めません。その距離の取り方を時間をかけて掴む性格です。恐らく一人っ子として育ったうえ、家族自体があまり社交的ではないのでそれが影響しているのでしょう。
でもこうして、大人になって色んなことを経験して、改めて認識して改めなければならないことに時々直面します。

でもうん、そうだ。人と出会った縁は大事にしなきゃいけない。自分を無理やり変える必要は無いけれど、人との縁を大事にしない人よりは大事に出来る人でありたい。自分がそう願うなら、そうなる努力をしようと思います。